かあびいblog

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【自己啓発本】『嫌われる勇気』自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

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 ”他者の期待を満たすために生きてはいけない”

 

そう説くのは、フロイトユングと学び「心理学の三代巨頭」と称される、ルフレッド・アドラー

 「青年と哲人の対話篇」という物語形式を用いてまとめた一冊。

 

どうすれば人は幸せに生きることができるのか」という哲学的な問いに、きわめてシンプルかつ具体的な”答え”を提示してくれている自己啓発本

  

【目次】 

第一夜 トラウマを否定せよ

第二夜 すべての悩みは対人関係

第三夜 他者の課題を切り捨てる

第四夜 世界の中心はどこにあるか

第五夜 「いま、ここ」を真剣に生きる

 

 

ここから下は、自分が心に留まった言葉の一覧。

まだ読んでいない方は

〈ネタバレ注意٩( ᐛ )و〉

 

 

 

 

なぜ「人は変われる」なのか

アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で外に出たくないから、不安という感情を作り出している」と考えるのです。 これを「目的論」と呼びます。

 

人は怒りを捏造する

 昨日の午後、喫茶店で本を読んでいたとき、通りかかったウェイターがわたしの上着にコーヒーをこぼしてしまいました。買ったばかりの、いわゆる一張羅です。カッとなったわたしは、思わず大声で怒鳴りつけました。あなたは怒りの感情に突き動かされて、怒鳴ってしまった。普段は温厚な正確なのに、怒りの感情に抗することができなかった。自分にはどうすることもできない不可抗力だった。

哲人はこう説いています。あなたは「怒りに駆られて、大声を出した」のではない。ひとえに「大声を出すために怒った」のです。

 つまり、大声を出すという目的をかなえるために、怒りの感情をつくりあげたのです。大声を出すことによって、自分のいうことをきかせたかった。その手段として、怒りという感情を捏造したのです。

 要するに、怒りとは出し入れ可能な「道具」なのです。

 

なぜ自分のことが嫌いなのか

 短所ばかりが目にいってしまうのは、あなたが「自分を好きにならないでおこう」と決心しているからです。

 なぜあなたは自分が嫌いなのか?なぜ短所ばかり見つめ、自分を好きにならないでおこうとしているのか?それはあなたが他者から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを過剰に恐れているからです。

 つまり、あなたの「目的」は、「他者との関係のなかで傷つかないこと」なのです。

 

人生は他者との競争ではない 

 同じ平らな地平に、前を進んでいる人もいれば、

その後ろを進んでいる人もいる。進んできた距離や歩くスピードはそれぞれ違うけれども、みんな等しく平らな場所を歩んでいる。

 誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいいのです。

 健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものなのです。性別、年齢、知識、外見、まったく同じ人間など、どこにもいません。他者との間に違いがあることは積極的に認めましょう。しかし、われわれは「同じではないけれど対等」なのです。   

 いまの自分より前に進もうとすることにこそ、価値があるのです。 

 

非を認めることは「負け」じゃない

いくら自分が正しいと思えた場合であっても、それを理由に相手を非難しないようにしましょう。

 人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに争いに足を踏み入れているのです。

 わたしは正しい。すなわち相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまいます。最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。これは完全なる権力争いでしょう。

 そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結すべき話です。誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではありません。われわれは競争や勝ち負けの眼鏡を外してこそ、自分を正し、自分を変えていくことができるのです。

 

「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない

 他者から承認されることは、嬉しいものでしょう。しかし、承認されることが絶対に必要なのかというと、それは違います。どうして承認を求めるのでしょう?なぜ他者からほめられたいと思うのでしょう?

 われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。

 他者の期待など、満たす必要はないのです。

 「自分が自分のために生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるのだろうか」ユダヤ人の教え)あなたは、あなただけの人生を生きています。誰のために生きているのかと言えば、無論あなたのためです。他者からの承認を認め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。他者もまたあなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。相手は自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。それが当たり前なのです。

 

ほんとうの自由とはなにか

他者から嫌われたくないと思うこと。これは人間にとって、きわめて自然な欲望であり、衝動です。アドラー心理学では、全ての悩みは、対人関係の悩みである」と考えます。つまりわれわれは、対人関係から解放されることを求め、対人関係からの自由を求めている。しかし、宇宙にただひとりで生きることなど、絶対にできない。

 すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と。

 他者からの評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。

嫌われる可能性を恐れることなく、前に進んでいく。坂道を転がるように生きるのではなく、眼前の坂を登っていく。それが人間にとっての自由なのです。

 幸せになる勇気には、「嫌われる勇気」も含まれます。その勇気を持ち得たとき、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。 

 

叱ってはいけない、ほめてもいけない

 子育ての場面において、あるいは部下の育成などの場面でも、一般にはふたつのアプローチがあるとされています。叱って育てる方法と、ほめて育てる方法です。

 ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれています。

 夕飯の準備を手伝ってくれた子どもに対して「お手伝い、えらいわね」とほめる母親がいる。しかし、夫が同じことをした場合には、すがに「お手伝い、えらいわね」とはいわないでしょう。つまり、「えらいわね」とか「よくできたわね」、「すごいじゃない」とほめる母親は、無意識のうちに上下関係をつくり、子どものことを自分よりも低く見ているのです。人が他者をほめるとき、その目的は「自分よりも能力のある相手を操作すること」なのです。そこには感謝も尊敬も存在しません。

 われわれが他者をほめたり叱ったりするのは「アメを使うか、ムチを使うか」の違いでしかなく、背後にある目的は操作です。

 アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています。 

 そもそも劣等感とは、縦の関係の中から生じてくる意識です。あらゆる人に対して「同じではないけれど対等」という横の関係を築くことができれば、劣等コンプレックスが生まれる余地はなくなります。

 

自分には価値があると思えるために

 仕事を手伝ってくれたパートナーに「ありがとう」感謝の気持ちを伝える。あるいは「うれしい」と素直な喜びを伝える。「助かったよ」とお礼の言葉を伝える。これが横の関係に基づく勇気づけのアプローチです。

 いちばん大切なのは、他者を「評価」しないということです。人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります。

 どうすれば人は、”勇気”を持つことができるのか?ドラーの見解はこうです。

 「人は、自分には価値があると思えた時にだけ、勇気を持てる」

 どうすれば、自分には価値があると思えるようになるのか?人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えた時にこそ、自らの価値を実感できる。

 共同体、つまり他者に働きかけ、「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。他者から「よい」と評価されるのではなく、らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて、われわれは自らの価値を実感することができるのです。

 

人は「わたし」を使い分けられない

 まずは他者との間に、ひとつでもいいから横の関係を築いていくこと。

 もしもあなたが誰かひとりでも縦の関係を築いているとしたら、あなたは自分でも気づかないうちに、あらゆる対人関係を「縦」で捉えているのです。逆にいえば、もしも誰かひとりでも横の関係を築くことができたなら、ほんとうの意味で対等な関係を築くことができたなら、それはライフスタイルの大転換です。そこを突破口にして、あらゆる対人関係が「横」になっていくでしょう。

 年長者を敬うことは大切でしょう。会社組織であれば、職責の違いは当然あります。意識の上で対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することが大切なのです。

 

若者は大人よりも前を歩いている

 ある家庭で夕食が終わった後、食卓の上に食器が残されている。子どもたちは自分の部屋に戻り、夫はソファに座ってテレビを見ている。妻(わたし)が後片づけをするほかない。普通に考えれば、「なぜ手伝ってくれないのか?」「なぜわたしだけ働かないといけないのか?」という状況です。

 しかしこのとき、たとえ家族からありがとう」の言葉が聞けなかったとしても、食器を片付けながら「わたしは家族の役に立てている」と考えてほしいのです。他者がわたしに何をしてくれるかではなく、わたしが他者に何をできるかを考え、実践していきたいのです。その貢献感さえ持てれば、目の前の現実はまったく違った色彩を帯びてくるでしょう。

 

ワーカホリックは人生の嘘

 世の中は善人ばかりではありません。対人関係のなかで不愉快な思いにさらされることは、多々あるでしょう。しかし、このとき間違っていけないのは、いずれの場合も攻撃してくる「その人」に問題があるだけであって、決して「みんな」が悪いわけではないという事実です。

 精神症的なライフスタイルを持った人は、なにかと「みんな」「いつも」「すべて」といった言葉を使います。「みんな自分を嫌っている」とか「いつも自分だけが損をする」とか「すべて間違っている」というように。

アドラー心理学では、こうした生き方のことを「人生の調和」を欠いた生き方だ、と考えます。物事の一部分だけを見て、全体を判断する生き方です。

 ワーカホリックの人たちは、明らかに人生の調和を欠いています。おそらく彼らは「仕事が忙しいから家庭を顧みる余裕がない」と弁明するでしょう。しかし、これは人生の嘘です。仕事を口実に、他の責任を回避しようとしているにすぎません。

 

普通であることの勇気 

 アドラー心理学が大切にしているのが、「普通であることの勇気」という言葉です。なぜ「特別」になる必要があるのか?それは「普通の自分」が受け入れられないからでしょう。普通を拒絶するあなたは、おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義でとらえているのでしょう。風つであることは、無能なのではありません。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです。

 

「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てよ

 人生全体にうすらぼんやりとした光を当てているからこそ、過去や未来が見えてしまう。いや、見えるような気がしてしまう。しかし、もしも「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。

 われわれはもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべきなのです。過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣にいきておらず、うすらぼんやりとした光のなかにいきている証しです。人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来を見ることで、自らに免罪符を与えようとしている。

 過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。

 「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。

 

人生最大の嘘

 人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。

過去を見て、未来を見て、人生全体にうすらぼんやりと光を当てて、何か見えたつもりになることです。過去も未来も存在しないのですから、いまの話をしましょう。

 決めるのは、昨日でも明日でもありません。「いま、ここ」です。

 

無意味な人生に「意味」を与えよ

 人生の意味とはなにか?人はなんのために生きるのか?アドラーの答えは「一般的な人生の意味はない」というものでした。

 たとえば戦禍や天災のように、われわれの住む世界には、理不尽な出来事が隣り合わせで存在しています。戦禍に巻き込まれて命を落とした子どもたちを前に、「人生の意味」など語れるはずもありません。つまり、人生には一般論として語れるような意味は存在しないのです。われわれは困難に見舞われたときにこそ前を見て、「これからなにができるのか?」を考えるべきなのです。

 そこでアドラー「一般的な人生の意味はない」と語ったあと、「人生の意味は、あたが自分自身で与えるものだ」と続けています。

 

【著者紹介】

岸見一郎(きしみ いちろう)

哲学者。1956年京都生まれ。京都在住。高校生の頃から哲学を志し、大学進学後は先生の自宅にたびたび押しかけては議論をふっかける。

京都大学院文学研究科博士課程満期退学。専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、1989年からアドラー心理学を研究。

精神力にアドラー心理学や古代哲学の執筆・講演活動、そして精神科医院などで多くの”青年”のカウンセリングを行う。

日本アドラー心理学会認定カウンセラー・顧問。訳書にアルフレッド・アドラーの『個人心理学講義』『人はなぜ精神症になるのか』、著書に『アドラー心理学入門』など多数。本書では原案を担当。

 

古賀史健(こが ふみたけ)

フリーランスライター。1973年生まれ。

書籍のライティング(聞き書きスタイルの執筆)を専門とし、ビジネス書やノンフィクションで数多くのベストセラーを手がける。

臨場感とリズム感あふれるインタビュー原稿にも定評があり、インタビュー集『16歳の教科書』シリーズは累計70万部を突破。

20代の終わりにアドラー心理学と出会い、常識を覆すその思想に衝撃を受ける。その後何年にもわたり京都の岸見一郎氏を訪ね、アドラー心理学への本質について聞き出し、本書ではギリシア哲学の古典的手法である「対話篇」へと落とし込んだ。

単著に『20歳の自分に受けさせたい文章講義』。